やさしさから逃げ出したい

友人との会話で、「やさしさ」がわからないという話を聞いた。考えてみると「やさしさ」の構造は複雑化してきている。ちょうどここら辺について本を読んでいたので上げたい。

特に参考になるのは大平健氏の「やさしさの精神病理」。著者は、優しさが70年代には傷のなめあいから派生する、「癒し」としてのやさしさだったが、大量消費時代になり、80年代からは「予防」としてのやさしさに変化したと指摘している。
「予防」するやさしさは、相手に対して気遣いをするやさしさ。ここで大事なのはなぜ予防しなければいけないのか。それは自分を守るため。自分を傷付けたくないため。この点は大平氏も指摘している。

もうひとつ参考になるのが「友だち地獄」 土井隆義に記述されていた。このような空気読めという人々というのはちょうど個性教育を訴えだしたころと一致しているということ。個性教育によって、自立した人材の育成を行おうとしたが、逆に小さくまとまる動きにつながってしまった。それが空気を読む時代。

ハリネズミ化している現代においては、集団主義のなかで常に「予防」するやさしさを発揮していかなければいけない。「予防」するやさしさは人間関係の潤滑油として機能する。しかし今の時代においてはあまりに潤滑油を大量に注いでしまっている。だからこそこんな息苦しいやさしさになった。

そして予防ばかりしていて、疲れてしまう。自分を守るために使っているやさしさによって、自分が疲れてしまう。考えてみると、この過剰なまでのやさしさによって、自分が傷つくことに対する免疫をなくしてしまっているのではないだろうか。

そんな過剰なまでに使っているやさしさから逃げ出したいと感じているところです。